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北陸新幹線は本当に京都を走れるか:京都では反対運動が盛んである⓶

京都に金がない

北陸新幹線は本当に京都を走れるか:京都では反対運動が盛んである⓶

写真:新幹線のフリー写真素材より

京都に新幹線を通すことの問題はいくつもある。
京都市は財政破綻寸前であることが良く知られるようになったが正に京都には金が無いのだ。
もし新幹線を通す場合、京都府は2000億円を負担することになると言われている。
この金を一体どこから出すのだという問題があるのだ、

京都府は人口の6割が京都市に集中しており、この京都市に金が無いということは、遠巻きに京都府にも金がないということが言える。
京都府の人口の6割が集中する京都市は謂わば京都府のドル箱とならねばならぬはずだが、その京都市が破産寸前なのだ。
ここに府の負担が2000億円発生するとなれば、それは府民税、市民税の増額となって返ってくるため、府民はやはり乗り気ではない。

SDGsなのに新幹線

SDGsなのに新幹線開発

2015年頃からよく耳にするようになったSDGs(持続可能な開発目標)は、もちろん北陸新幹線の京都ルートの反対目的でも言い出されている、
SDGsは中でも環境問題に対して用いられることが多いが、新幹線建設は文句なしに環境への負荷が掛かる。

リニアに反対している静岡県は大井川の水が無くなることを懸念している。
傍から見たら静岡県の我が儘に見えるかも知れないが、静岡県は過去に東海道本線を通す際、水枯れをした前例(丹那トンネル工事)がある。
既に山梨県側でリニア工事による水枯れは起きており、静岡県がリニアにゴーサインを出さないのも無茶苦茶な論理では無いのだ。

同様に京都府で反対が多いのもまた、無茶苦茶な論理ではない。
京都市は平安京から続く1000年の都であるが、1000年と長きに渡って人々の生活を支えてきたのは水である。
特に鴨川は四神相応の青龍として充てられていると言われるほどには、平安京の街造りには重要な意味合いを持っている。

同時に京都盆地の地下は水だらけである。
持統天皇が造られた新益京(藤原京)は水の問題が大きかった。主に下水だ。続く平城京もまた、水問題は切って切り離せなかった。
京都1000年を支えてきたのは、鴨川、天神川の他、琵琶湖の水量に匹敵すると言われる京都水盆の水が大きいのではないかということがわかってきているのだ。
そう、京都は1000年の都にして水の都でもあるということである。
そうなれば「SDGsなのに地下で新幹線工事やるのか」と言う言い分も、無茶ぶりではあるまい。

朝9時の会議の為に新幹線に乗る必要はない

東海道新幹線はかつて「朝9時の会議に間に合う」をキャッチコピーにした時期がある。
この時期は「のぞみ301号名古屋飛ばし」は有名であり、なんと京都も通過していたのである。

新幹線の主な利用客は基本的にはビジネス客を想定している。
東京の営業マンが新幹線で地方に行って商談をしてくる(またはその逆)、東京のお偉いさんが地方の自社工場に行く、そんな感じで新幹線が使われていたのだろう。
しかし、コロナ禍はライフスタイルを大きく変えた。
朝9時の会議に間に合わせるために、わざわざ新幹線に乗らなくても良くなったのである。

ついぞこの間まで「大航空時代だ」などと思っていたら、いつの間にかリモートコンピューティング時代に入っているのだ。
今や商談すらリモートで可能であり、ともすれば営業職でもテレワークが出来る時代になった。
このような環境の中、果たして高い運賃を払って新幹線に乗る機会など年に何回あるのか。

整備新幹線の構想は田中角栄が打ち立てたものであり、角栄の時代にリモートデスクトップは無かった。
今や遠隔接続など当たり前だ。チャットツールなどの浸透もあって、1000㎞離れた人間とも秒で遣り取りが出来る。
新幹線でな数十分、或いは数時間かけて遠くへ行く必要はない時代になったと言えよう。
そのような時代に突入した中で、果たして新幹線建設に掛けるお金が有意義な税金の使われ方なのかを考える必要がある。
建設業が人手不足であり、かつ老朽化したインフラが多い日本は、もっと他にやるべきことがあると思われるが、如何か。

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  2022/06/04   センチュリー・大橋

北陸新幹線は本当に京都を走れるか:京都では反対運動が盛んである⓵

京都へ移り住むまで知らなかったことだが、北陸新幹線の敦賀以西は京都の地下を通ることになっているらしい。
2024年から敦賀まで伸び、そこから先は小浜市や亀岡、京田辺を通り、最終的には新大阪に通すようである。
勿論京都駅も止まるであろうが、しかし北陸新幹線、京都では反対運動が盛んである。
京都に来るまでは北陸新幹線の敦賀以西はまだ決まっていないと考えていただけに、京都で反対活動が盛んなのを目にしてから敦賀以西ルートが決まっていたことを知った時には「なぜ米原ルートにしなかったのか」という疑念が尽きぬものではあった。

地下を通ることへの不安根強く

インスタグラムでも「#北陸新幹線反対」のタグを使った投稿は4件確認され、その内3件が京都の投稿である。
参考までに京都市の市議会は国政与野党の勢力がほぼ拮抗した構成となっているため、概ね新幹線への賛否も半々と思って良いだろう。
議員向けアンケートでは自民党や立憲民主党の議員は敦賀-小浜-京都ルートに賛成である一方、れいわ新選組や共産党は反対である。

市民側の不安も大きい。
決定されたルートは京都の地下を通ることになる。
この「地下を通る」が大きな問題で、反対が増える大きな転換となった事件は調布市で起きた住宅街の陥没事件だ。

調布陥没事件は北陸新幹線の反対世論にも影響を与えている 陥没が起きた調布の地下には東京外かく環状道路が造られていた。
「大深度地下方式」と言って、これはリニア中央新幹線や北陸新幹線の工事でも採用される方式となっている。
京都市内では恐らく右京区や伏見区の地下に大きなトンネルが出来ることになるだろう。調布で起きた陥没事故:京都は大丈夫なのか

画像:「調布市の住宅街陥没から1年 亀裂と隙間の家に今も暮らす住民」より

調布の地下ではシールド工事によって隙間が出来てしまったということになる。
シールド工事をした真上にだけ影響があるわけではなく、振動が伝わった広範囲に影響は及ぶようである。

なお、調布ではこの記事を書いている現在も補償を巡る分断や軋轢などの問題は片付いていない。
トンネルの真上に住んでいた住人にだけは手厚い補償はあるようだが、補償エリア外に住んでいる住宅でも異変は起きている。
音は直線で移動をするわけではない。振動は点や線で伝わるものではなく、面である。よって振動が伝わった区間では、地下の異変の影響を受けるのは全く不思議なものではない。

米原ルートか湖西線改軌なら賛成過半数になったであろう

京都新聞の北陸新幹線に対する賛否アンケート

グラフ:北陸新幹線「現在のルートで延伸を(京都新聞)」より

京都新聞の行ったアンケートでは、延長する必要はないと答えた人数は41.6%、経路を変えて延長すべきが18.4%、現在のルートで整備延長すべきが29%となっている。
このアンケートの見方で「47%は北陸新幹線の延伸は賛成なんですね」と読むことはできるが、あくまで「経路を変えるなら賛成」という意見を含めれば47%いるに過ぎない。
例えば「延長する必要は全くない」と「ルートを見直して延長整備すべきだ」を足して6割になるから建設中止にすべきが印象操作だと言うのなら、同様に「現在のルートで整備すべきだ」と「ルートを見直して延長整備すべきだ」を足したら賛成多数になると言う言い方もまた、印象操作である。

では「ルートを見直して延長整備すべきだ」とは、一体どのルートを指しているのであろうか。
端的に言えば米原ルートのことであろう。米原から北陸新幹線は東海道新幹線に合流するなり、あるいは北陸新幹線用にレールや番線を増やすということが多くの「ルートを変えて整備すべき」と言った府民の考えであろう。

鉄道オタクなら「東海道新幹線はもう限界だって言ってるだろ」と言いたくなるかもしれない。しかし京都府民に鉄道オタクはおれど、それは一部の話であって、鉄道オタクでない人間を「東海道新幹線はいっぱいだからトンネル掘らせてね」で納得するであろうか?
あるいは、もしかしたら敦賀からは在来線に降ろして、湖西線を標準軌化した上でのミニ新幹線をやって欲しいという府民だっているかもしれない。

もっと言えば「北陸新幹線の敦賀以西は延長なんか要らない」と言ってる人間も「要らない」と言っているのは、あくまで「フル規格新幹線」であって、京都ー敦賀を新幹線車輛で湖西線を走り、敦賀からそのままフル規格新幹線部分を通って富山まで繋いで貰えるミニ新幹線方式なら、一気に賛同者は増えるかも知れない。
それが「なんでウチ等の住む地下にトンネル掘られなアカンの?」となっているのが、今の北陸新幹線の敦賀以西ルートである。

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京都府   2022/06/02   センチュリー・大橋

長崎は今も平和と戦争の最前線かも知れない

長崎新幹線の部分開業に伴い、特急かもめ号も2022年秋で長崎本線の運行から外れることとなるため、かもめ7号に乗って長崎へ向かうことにした。
885系特急電車は油断すると酔うこと間違いなしであるが、有明海の景色は絶景である。
さて、長崎と言えば原爆が投下された街として爆心地には慰霊塔が置かれ、平和記念公園の像は本や雑誌でも見かける機会の多い存在である。しかし、長崎市街を歩いてそれ以上に強い存在感を放つものがある。
それは三菱グループの生産拠点だ。
長崎でよく見かけたものを3つ答えろと言われたら、三菱は筆頭に挙げることが出来る。

長崎市は今も日本有数の軍事都市である

もともと原爆が投下される予定地は北九州市の方であったが、天候の兼ね合いで長崎に変更されたという経緯はある。ただし、長崎が当時も軍事都市であったことは確かであり、そうした点で米軍が長崎に原爆を投下する理由というのは確かにあった。
ところで「当時も」と書いた。
長崎は一度原爆を落とされたのだから広島同様に「平和都市」に変貌しても良いはずではなかったのかと思われるかもしれないが、そんなことは無い。
長崎市は「三菱城下町」とも言われるほど三菱が集結した街だ。それも造船が盛んで、今もイージス艦や護衛艦などは長崎出身の自衛艦が存在する。
お隣、長与町にある三菱重工長堂崎工場で生産されているのは魚雷だ。三菱重工は日本で唯一魚雷を製造できる企業であり、長崎は「戦前も戦後も軍事都市」としての性格は維持し続けているのである。
三菱城下町である以上、当然、選挙は組織票を得られる自民党が有利だ。
尤も、それでさえ自公の議席割合は現段階で60%で、佐賀市や熊本市と比べると、意外にも自公の議席率は少ないが…。

長与町:三菱重工の魚雷製造工場がある堂崎小半島
国道207号線から見た堂崎小半島。
この小さなは半島に三菱重工の魚雷製造工場がある。

長崎発の核兵器は生まれるか

高市早苗は敵基地攻撃能力を獲得するべきだと主張していたが、その方法と言うのは電磁波を使ったものだという。
この電磁波を使う攻撃というのが電磁パルス攻撃を指しているのであれば、それに用いられる兵器は核兵器となる。
高高度核爆発を起こさせることで電磁パルスが発生し、対策の施されていない地域ではパソコンや電車はおろか、ともすれば水もガスも使えなくなるというもので、範囲は極めて広範囲に及ぶことから直接的に核爆弾を落とすより大きな被害を与えることが出来る。
よって高市早苗の主張する電磁波攻撃が電磁パルスを指している場合、必然的に日本は核武装をする、ということになる。
当然IAEAやアメリカは賛同は得られないであろうが、仮に1000歩譲って核兵器を作れることになった場合、どこの企業が作るであろうか。
日本製核兵器の製造会社として真っ先に候補に挙がる企業は三菱重工だ。部分的には三菱電機と協業しながら制作することになるだろう。

ではどこで開発し、どこで核実験をするのか。
日本が核武装できるとして、核実験場の課題が残るが、製造地としては長崎近辺が現実的な場所になろう。
長崎市からす少し外れているとは言え、魚雷製造工場も長崎市内から車で行けばほど近い場所であるし、何も長崎市だけで面積は405㎢と大村湾(320㎢)より広い。式見町などダム付近は人が殆ど住んでいないし、いつの間にか核兵器製造工場が出来ていたりするかも知れない。
尤も「高市早苗自身が自分の言ってることをわかっていない可能性がある」という指摘も貰ったが、本気で高市早苗は敵基地攻撃能力を持つ気でいるのだろうか。
もしそうであるとしたら、いずれ長崎市の平和記念像は取り壊され、三菱の研究所に変わっていたとしても、不思議なことではないかもしれない。

今更振り返る表現の不自由展

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長崎県   2021/09/23   センチュリー・大橋

今さら振り返る表現の不自由展:大村県知事の発言は正論だった⓶

「税金で行う展示会だからこそ表現の自由は守られなければならない」

あいちトリエンナーレで大村県知事の発言した内容は、図書館の姿を考えても見れば当然の発言であった。
日本国憲法21条では表現の自由が認められているが、日本国憲法はそもそも大日本帝国における過ちの反省から生まれたものだ。
戦前の治安維持法下に於いては、左翼思想とみなされたものは単純所持すらが禁止となっている。
日本が戦争に突き進んだのは世論が戦争を求めたからであるが、広島と長崎に原爆が投下されるまで日本は戦争を止められなかったのであるから、如何に多様性無き社会が危険かはわかるだろう。

図書館の発展はデモクラシーと共にあった

日中戦争以前の日本の図書館を見て見ると、自由民権運動や大正デモクラシーに伴って発展している様子が伺える。
民主的な運動が図書館の発展を支えるということについては、WW2前と後で大きな違いは無いようで、日本においては治安維持法成立後、図書館を巡る運動も鎮火されてしまったようだ。
もともと大日本帝国の政府にとって図書館は「思想善導に役立つかどうか」が大事なのであって、人々が自由に言論を交わすことについては否定的であったわけだから、あいちトリエンナーレで盛んに言われた「税金で不敬なものを展示するな」という考え方は、ある種の大日本帝国的な発想とも言えるかもしれない。

太平洋戦争終結後、日本の図書館は「図書館の自由に関する宣言」を出している。
この図書館の自由に関する宣言で最初に来ているもの、それは図書の収集の自由である。収集に関する宣言は次の5つからなるが、もちろん図書の収集は税金でもって賄われるものである。

(1) 多様な、対立する意見のある問題については、それぞれの観点に立つ資料を幅広く収集する。
(2) 著者の思想的、宗教的、党派的立場にとらわれて、その著作を排除することはしない。
(3) 図書館員の個人的な関心や好みによって選択をしない。
(4) 個人・組織・団体からの圧力や干渉によって収集の自由を放棄したり、紛糾をおそれて自己規制したりはしない。
(5) 寄贈資料の受入にあたっても同様である。   
図書館の収集した資料がどのような思想や主 張をもっていようとも、それを図書館および図書館員が支持することを意味するものではない。

当然ながら図書館は皇室を崇拝する本を収集しても良ければ、皇室解体を主張する本を収集しても良い。税金で買い集めるからと言って、特定の主張の書籍を排除するようなことはあってはならないということである。

現代版治安維持法を求める声は多いかも知れない

あいちトリエンナーレは図書館のイベントでは無いが、表現の自由の本質が問われるという点では、図書館と共通する部分がある。
普段アニメやライトノベルが好きな者が「表現の自由を守れ!」と言った同じ口で「税金で日本人を貶めるような不快な展示をするな!」と叫ぶ者がいるのだから、そういった人は表現の自由の本質的な点を理解していないのかも知れない。

あいちトリエンナーレが露わにしたのは、現代版の治安維持法を求める声が大きくなっていることであろう。
憲法改正がしきりに叫ばれているが、恐らく日本人は「人権」というものを有難く思っていない人が多いのかもしれない。実際問題として自民党改憲案では基本的人権に掛かる97条が削除されているのだが、このことについて危機感を持っている国民は少ない。

先日、常滑市でのライブイベントに於いて観客が密になり、コロナ感染の拡大に繋がるものとして、大村県知事が立腹する場面があった。
だが、だからと言ってイベント禁止をするということはなく、表現の自由を守るという一点に於いて、大村県知事の行動は一貫している。
そうした意味では大村県知事の方がよほど表現の自由があることの大切さ、即ち歴史を理解している政治家と言えるのかもしれない。

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愛知県   2021/09/03   センチュリー・大橋

今さら振り返る表現の不自由展:大村県知事の発言は正論だった⓵

Twitter政治で度々見かけることがある話題が表現の自由というものであるが、この話題に遭遇するのは大抵、アニメやゲームコンテンツにおける女性キャラクターの扱われ方に関するものであった。
その論争は日本国憲法の成立面からは些かズレた論争に見えたのだが、あいちトリエンナーレにおける表現の不自由展においては、いよいよ日本国憲法の本質面を問われる事件と言えるものだった。

主観的に言えば展示内容はとても芸術とは思えぬものであったし、税金を使って展示するには相応しく無いと考えていたものだったが、大村県知事は「税金で行われるイベントだからこそ表現の自由は守られなければならない」というものであった。
あれから時が経ち、練馬図書館のリサイクル図書で「図書館の発見(前川恒雄/石井敦:著)」を読んでみると、大村県知事の意見が正解であったということを痛感することとなった。

表現の不自由展の論点

あいちトリエンナーレ:表現の不自由展の論点

21世紀日本でも消えぬ「思想善導」の考え方

表現の不自由展で問われたことは「こんな不快な展示を税金使ってやるな!」というものであった。
「こんなものは不快なのだから私費でやれ!」ということが問われたのが、あいちトリエンナーレにおける表現の不自由展論争である。
しかし、富岳というアカウントの言う通り、税金を使って不快な展示をしてはいけないというなれば、図書館には時の政府を批判するような本は置けなくなるだろう。
もっと言えばライトノベルだって「税金を使って収集するようなものでは無い!」と怒る人が沢山がいたら、図書館からライトノベルは消えてしまうかもしれない。いや、実は昔の図書館にはそういうことを言う人がいたのである、
日本の公立図書館というものは明治期にスタートしたわけであるが、もともとの図書館に関する考え方は正に、トリエンナーレの不自由展に批判的な態度を取った人達と近しい考え方だ。
日本における公共図書館は西洋と異なり、出発点が「本を見せてやる施設」だったのであるが、あいちトリエンナーレを「税金で出店させてやってるイベント」と捉えてしまうと、それは明治期の図書館思想と変らず、税金で行われる展示は思想善導に役立たねばならないということになる。
尤も、治安維持法発令後は、私立図書館であっても不自由展に展示されたような内容は「単純所持が違法」になったのであるが…。

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愛知県   2021/08/31   センチュリー・大橋

何故ない東京市!!:存在しない理由は●●だった!!

神奈川県の県都は横浜市であり、横浜市民には横浜人としての自負がある。
隣町の川崎と対立している横浜だが、横浜人には横浜人としての自覚があり、川崎民には川崎民としての自覚がある。
県外の人間から見ても神奈川県民であることと横浜市民であることは別個で存在することができ、横浜人はやはり横浜人なのである。

一方、東京都では町田市民を除き、東京都民は都外の人間からは「東京の人間」と一括りにされてしまうのが悲しいところである。
多摩地域は個々の市町村のブランド力に乏しく、比較的ブランド力のある町田は「神奈川県町田市」としてのブランド力であり、それ以外の市町村についてはやはり「多摩地域の人間」としてのブランド力が無いため、東京都民という概念にて一括りにされてしまうのが悲しい現象である。

都民から見た東京都のイメージ

ネットで話題になっていた東京都のイメージ図だが、都民から見た東京都のイメージはだいたいこれで合っているだろう。
しかし、これを他府県の人間に理解してもらうのは大変なのである。

神奈川県はカワサキとヨコハマで明らかに雰囲気が異なるし、湘南や小田原など各々に知名度があり、独立した民族性を理解してもらえるのだが、東京都は意外とそうでもない。そもそも東京には「東京市」が無い。これが他県から見た東京のイメージに多摩も東京の人として一括りにされるのではないかというきがしないでもない。

東京には無い東京市

東京には「西東京市」という自治体ならある。
かつて存在した保谷市と田無市が合併して西東京市になったのだが、肝心の東京市は無い。
元々は「東京市」は存在した。今でこそ「東京都」であるが、当初は「東京府」だったのである。

東京府庁/東京市役所

ではなぜ東京市は無くなったのか。それは戦争によって「東京府」に吸収される形式で「東京市」が消滅し、現在の「東京都」になったからだ。
その昔、東京府庁と東京市役所は同じ建物に入っていた。同じ建物に入っていたが、組織としてば別個の存在であり、別個の存在であると職員間の縄張り争いが起こってしまう。
愛知では大村秀章県知事と、河村たかし名古屋市長が縄張り争いしたお蔭で名古屋の行政がストップしていると言われているが、正に当時の東京府と東京市の関係もそれに近い関係だったのかもしれない。
戦時中ということもあり、行政のストップは許されないということから、合理化を図った末に生まれたのが「東京都」と言うわけだ。
つまり現在の都庁は実質的に「特別行政区(23区)の頂点」としての機能と「多摩地区・離島部を含めた都の頂点」としての機能がパックになっているわけである。

大阪都構想が目指している姿もここであろう。
尤も、大阪は市も府も長は大阪維新の人間が就いていることから、喫緊の課題とは思えず、寧ろ県知事と名古屋市長のプロレスが続く愛知県こそ都構想を導入した方が良いのかもしれない・・・。

もっと多摩地区にブランド力を…

多摩市と立川市は「とある科学の超電磁砲」で部隊になった土地であるし、多摩市にはサンリオピューロランドがある。住民票はキティ版も発行してもらえる街なのだが、まだまだブランド力という点では神奈川県町田市には遠く及ばないのかも知れない。
はんなりギロリの頼子さん(京都府やなくて京都市)
はんなりギロリの頼子さんより
やはり自分の出身地や住処について、都道府県単位より市町村単位で語りたいものである。
「京都”府”やなくて…京都”市”」
京都市にはそれだけのブランド力はある。しかし東京都の多摩地域、まだまだ「神奈川県町田市」以外は市単位でのブランド力構築はまだ遠い。
試しに多摩市在住の人は自宅の最寄り駅を訊かれたら「多摩センター」と答えて見ると良い。
結構な確率で「ああ、田園都市線ですよねー」と返ってくる。
「そりゃ多摩センターじゃなくて、たまプラーザだ!」と突っ込みたくなるのが常である。
それだけ多摩市より横浜市の方がブランド力はあるのだ。

呑川増強幹線整備事業説明会レポート

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東京都   2021/08/14   センチュリー・大橋
タグ:横浜市 , 川崎市

「誰しもが魔王になり得る」今の東京が正にそんな状態になりつつある<2>

必要なのは同情ではなく仕組みだ

「なんで小田急通り魔事件は起きたのか」
もし人からこんな質問されたなら「それだけの仕組みが東京にあるから」としか答えられない。
「いくら辛い環境に育ったからと言って誰しもが通り魔やるわけじゃないだろ」と言われれば、それは正しい。その通りである。
だが、それこそ「どうにも手に負えない5%の人間」とて、必ずしも通り魔をやるわけではない。
通り魔をやったこと自体は許されざることであるし、どれだけ犯人の境遇が不遇であったとしても、同情する必要はない。
尤も裁判でも「情状酌量の余地なし」となるであろうし、して「被害者の気持ちを考えること」も、これから裁判員になるであろう人達の仕事である。
外野にいる我々の考えるべきことは「被害者に寄り添う」のではなく、同じ事件が発生しないようにするための「仕組みを作る」ことであろう。
そもそも「被害者や遺族の気持ち」は被害者や遺族にしかわからないのであって、それを汲むのは裁判員、検事、裁判官の仕事だ。
今の東京には凶悪犯罪を発生させうるだけの仕組みが出来上がっているのであって、根本となる仕組みを変えなければ事件の再発は防げない。
Amazonのジェフ・ベゾスの口癖と言われていた言葉に「Good intention doesn’t work, only mechanism works!(善意は働かない。働くのは仕組みだ)」というものがある。これは全く以て正しい。
少なくとも日本の構造は97年から大きくは変わっていない。
仕組みが97年から大して進歩していない…いや、寧ろ崩壊が進んでいるのだから、凶悪犯罪を抑えられないのもまた当然なのだ。

資本主義とは優生主義であるものだ

この記事を書いている最中にメンタリストDaigoが「ホームレスの命はどうでもいい」と発言して総スカンを喰らっている。
「生産性で命の価値をはかる優生思想に直結する発言だ」と、植松聖と同じような思考回路であると批判を受けているわけである。
尤も「資本主義とはそういうもの」である。
資本主義は功利主義にして優生主義だ。市場原理・競争原理は常に優生主義によって動いている
嘘だと思うなら婚活市場を見てみればよい。

婚活市場は男性は女性に若さや容姿の良さを求め、一方、女性は男性に年収と平均以上の容姿を求めている。
男性なら20代の女性を求め、女性なら年収500万円以上を男性に求める。これが「市場のニーズ」であるが、この発想は正しく「人の価値は生産性である」ということを暗に示しており、人の価値は生産性であると言うことを植松聖的感性と言うなれば、婚活市場に参加する誰しもが心に小さな植松聖を抱えていると言って良い。

だが、資本主義…ひいては市場原理主義とは「そういうもの」なのだ。
市場原理主義社会に平等思想は相いれない。市場原理主義は常に優生主義であり、優れた生産性(年収/容姿/人脈等)を出せる人間だけが結果を得ることを許される。そして「希望にそぐわぬ者などどうでも良い」というのは、婚活市場でも良く見られる事象だろう。

さて、對馬悠介は植松聖と同類と言えるのかということ、ここもやはり異なっている。
植松聖は「生産性無きものを裁く」という立場に身を置いた人物であるが、對馬悠介は「生産性無きものとして裁かれた」という立場に身を置かされた人物である。
植松聖と對馬悠介。
「起こした結果」は似たようなものに見えども「そこに至る道筋」は異なっている。どちらかと言えば加藤智大に近く、言わば市場原理主義とそれに伴う優生主義の中で溜め込まれたコンプレックスが暴走したものと言えそうだ。

再発防止をするなら「社会的な仕組み」を変えるしかない

少なくとも今の東京には、コンプレックスを溜め込んだ者が凶行に至るようになる仕組みが整っている。

對馬容疑者についての話題をする時、こんな返答を貰ったことがある。
「日本人は韓国の事を民度が低いというけど、最近の事件見てると日本の民度も韓国の悪口は言えないと思う。今までの日本人が経済的に豊だったから気持ちにも余裕があっただけです」
そもそも日本は社会主義の国であった表向きは資本主義でも実質は「世界一成功した社会主義国家」だったのである。
本当の意味で日本の資本主義化が進んだのは中曽根改革以降であろうが、資本主義、並びに市場原理主義が浸透すればするほど格差は生まれ、優生主義が染み付く土壌が作られることになる。

「誰しもが魔王になり得る」

LIVE A LIVEでオルステッドが最期に残したこの言葉、いま正に東京で起きていることである。
この負の連鎖を断ち切るには、断ち切るための仕組みが必要だ。
LIVEを反転させるとEVILになる。
ではEVILを生まないようにするためには何をすれば良いのか。
今の政治に無いのはグランドデザインだ。
全ては仕組みが決める。仕組みこそが正義であり、サステナブルな社会を創る仕組みの設計こそ、今の政党が最優先で行わなければならぬ取り組みではなかろうか。

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東京都   2021/08/12   センチュリー・大橋

「誰しもが魔王になり得る」今の東京が正にそんな状態になりつつある<1>

LIVEは反転してEVILになる

ひぐらしのなく頃に業。
北条沙都子が高校生になり、古手梨花との確執が生まれ、四面楚歌状態に陥ったことを機に、沙都子は梨花への報復行動を取るようになる。それが令和版ひぐらしの惨劇の発端であり、このアニメを見ている間にふと思い出した言葉がある。

ひぐらしのなく頃に業:古手梨花に報復を決意する北条沙都子ひぐらしのなく頃に業:古手梨花に報復を決意する北条沙都子

「誰しもが魔王になり得る」

LIVE A LIVEにおいて魔王となった主人公、オルステッドの最期の一言がこの言葉である。
ゲームタイトルのLIVE A LIVEは2番目のLIVEが反転しており、右から読みで「EVIL」になるのだが、ひぐらしのなく頃に卒は正に、かつて仲間であった北条沙都子が反転して「EVIL」になった視点で描かれている。

そんなことを考えていた矢先の小田急車内通り魔事件であるが、せっかく中央大学に入ったにも関わらず、その後の人生が不安定になった對馬悠介容疑者。
かつての秋葉原事件や川崎登戸事件を振り返るに、1994年に生まれたゲームながら「誰しもが魔王になり得る」という言葉が現実に起きている。

キレる17歳世代の闇は深いのか

実のところ私は對馬悠介容疑者とだいぶ歳は近かったりしている。母子家庭というところまでは育った境遇まで同じである。
振り返ると私の少年時代は少年Aに始まり、西鉄バスジャック事件が起きたあの時代は「キレる17歳」などと言われ、高校生犯罪が相次いだ時代であった。
実は秋葉原事件の加藤智大まで歳は近いし、世代的に見ると對馬悠介容疑者もまた、殆どこの年代である。
各々がLIVE A LIVEをプレイしたことのある者かどうかはわかりかねるが、これほど歳が近いのも恐ろしいものである。
私自身も母子家庭で歪な少年時代を過ごしたから、どことなく彼らの心境もわからないではないが、しかしこれほど自分と歳の近い男子が凶行に手を染めるというあたり、我々の年代が抱えている構造的な問題でもあるのではないかと疑いたくなってくる。

異常性は育った環境と置かれる現状によって身に付くものである

ネットでは對馬悠介容疑者に対し、極刑を望む声がよく見られる。
それを望むことは否定しないが、果たして重罰は極限に狂った人間に効果があるのかということはよくよく検討せねばなるまい。
そもそも近代においてさえ重い刑罰を公開で執行することは娯楽として用いられたもんである。為政者にとっては自分達への不満を逸らすため、刑罰執行の公開は都合の良いものであり、民衆にとっては娯楽であった。人間の本質など時代変われど、そうそう変わるものではない。
Twitterで政治アカウントが日夜喧嘩に明け暮れるのも、己が信ずる「正義の執行」とやらに娯楽性を感じて喧嘩に明け暮れているという一面もあり、実は政治アカウントは「政治の話に見えて宗教の話をしている」というのは以前も指摘した通りだ。

恐らく小田急通り魔事件も秋葉原事件も、一人の異常者による異常行動であり、個人の資質の問題と考える人が多いであろう。
だが、そもそも生まれついての異常者など殆どいない。
『世界一シビアな「社長力」養成講座(ダン・S・ケネディ:著)』ではこのようなことが述べられている。

・決して嘘をつかず盗みを働かない人間は5%しかいない
・同様に手に負えない性質を持った人間も5%しかいない

これは90%の人間は状況によって嘘もつくし、盗みも働く普通の人ということだ。
アメリカの中小企業は普通に働く従業員が香ばしいことをする面白い輩がたくさんいるようだが、少なくとも生まれついての善人も根っからの悪人も5%ずつしかいないのである。
即ち90%の人間は育った環境、いま置かれている境遇によって人格や思考が形成されると言って良い。

もしアニメが好きな人は、是非ひぐらしのなく頃にをご覧になってみると良い。
北条沙都子の異常な行動は先天的な性質によって起こされたものではなく、壮絶な生い立ち、高校生活で置かれた境遇、たまたま出遭った悪しき人脈によって惨劇が引き起こされる「前提」が作られたのだ。

こういうと「なら對馬は手に負えない性質を持った5%の人間なんだろ」という意見もあるかもしれない。
しかし、私は「誰しもが魔王になり得る」というオルステッドの言葉を振り返るに、普通の「90%の人間さえ凶悪犯罪を起こし得る」と考えねばならないと見ている。
「個人の資質の問題だ!」
こう言い切れれば確かにそこで話は終了できる。だが、根本は解決しないと言って良い。同じことはまた起こるのだ。
根本的な解決策、それは仕組みを変えるしかない。ただ刑を重くすれば良いという問題ではなく、社会構造を変革していかなければならないのである。

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東京都   2021/08/12   センチュリー・大橋

小田急線内通り魔事件は偶然に非ず/起こるべくして起きただけである

対馬容疑者による小田急車内傷害事件は偶然起きたものに非ず個人の資質の問題でもない

まさかである。
祖師ヶ谷大蔵はウルトラマンの街であるが、小田急線内で大変なことが起きているときにウルトラマンは助けに来なかった。
線内で起きたことは車内傷害事件。
犯人は明確に女性に敵意を持っていたことから、狙われたのは「幸せそうにしている女性(犯人視点)」であった。
Twitterでは対馬容疑者に対する断罪のツイートが多く見られる。少なくとも女性を狙い撃ちにしており、かつ6年前から犯行を企てていたという点からすると、決して無敵の人と言うわけでは無いだろう。
では、この犯行は「対馬容疑者個人の資質の問題が起こしたのかどうか」という点についてはどうだろうか。
恐らく10人中9人は対馬容疑者個人の資質の問題であると答えるだろう。だが、本当に容疑者個人の資質の問題で済むのかということについては、甚だ疑問である。

東京はそのように社会が設計されている

今回、犯行に及んだ対馬容疑者は派遣社員であるという。この派遣社員と言うところが引っかかる。
かつて秋葉原で惨事を起こした加藤智大は日研総業に属する「派遣社員」であった。
この「派遣社員」という身分であるが、元は単純低賃労働をするようなものでは無かった筈である。
ハケンの品格というドラマで大前春子はあらゆる資格を取ったS級派遣社員とされているが、本来なら「何かしらの道に通ずるスペシャリストを派遣」し、相応の対価を得るというのが本来の有るべき姿であった筈なのだ。

いつしか、労働者派遣は「終身雇用の縛りから逃れる単純労働の人身売買」へと置き換わっているというのが日本の労働者派遣の実態だ。
その地位は「ハケンの品格」なんて言えるような大層なものではなく、労働ヒエラルキーの最下層に追いやられている。よって年収は低く抑えられ、かつ解雇されやすいという、二重の悪条件が整っている。
なお、労働派遣の姿として、一般的に知られる登録型派遣の他、IT業界には派遣法の穴を掻い潜るかのようにSESが存在していて、これもまた常駐先からは「派遣さん」と呼ばれ、不安定な雇用に低い収入で抑えられている。

ところで婚活市場は今や「三高」から「三平」に女性のニーズが切り替わっていると言われるが、この三平の平均と言われる3つの定義は次のようになる。
・年収500万円以上
・星野源”くらいの”平凡な容姿
・平穏な性格
もしかしたらい今のニーズはまた変わっているかも知れないが、私の知る限り婚活女子のニーズは三平であり、年収は500万円以上が望まれている。
ネットではこれに対し「全然平均じゃない!」と批判されることもあるが、しかし東京の社会基盤を見れば、そう望まざるを得ないのである。

そもそも東京には共助というものが無い。共助は無いが、ひとたび子供でも出来ようものなら偉く金が掛かる。
ママ友でも出来ようものなら更に家計は大変だ。荻原博子氏は「隠れ貧困 中流以上でも破綻する危ない家計」で「高年収なのに貯蓄が無い家庭」を紹介しているが、ママ友会はとにかく浪費の元凶である。
有り体に言えば、東京とは「共助は無いが見栄は張らねばならぬ都市」であり、かつ「貧富の差も激しい都市」である。
尤も、婚活女子にニーズのある三平を満たすだけでもかなり大変なのだが、三低になってしまうとよもや最悪である。酷い時には人間扱いすらしてもらえない。こんなことが本当にある。

偶然起きた事件などない!:まず社会設計を変えるべし

かつて発生したSMBCソースコード流出事件において、私は「起こるべくして起きた」と述べている。神奈川県で発生したブロードリンク社従業員によるHDD転売事件も根っ子は同じだ。起こるべくして起きたものであり、偶然起きたものではない。
小田急通り魔事件についても同様だ。
SMBCソースコード流出、HDD転売、電車内通り魔事件。
個々の事件として起きた事象はバラバラであるが、本質的な問題に大差はない。
日本列島は上空から見るとバラバラの島に見えるが、本州から北海道、九州は海底トンネルで。四国と本州は一本の巨大な橋によって、線路で繋がっているように、SMBCソースコード流出事件もHDD転売も、小田急車内通り魔事件も一本のレールで繋がっているのである。
コロナ禍では女性が命を絶ってしまう割合が大幅に上昇したが、これすらも本質的な問題は「社会設計の欠陥」という問題に辿り着く。

「本当の異常者によって起こる偶発的な事件」などいうものは殆どない。
本当は社会設計にバグがあるのを気付かず、システム障害が起こるまで不具合を不具合として認知できないだけだ。

個人の資質の問題としてしまえば、犯人を断罪することで一時的には正義を執行した気分になり、Twitterでは沢山リツイートされることで承認欲求も満たされるであろう。
だが、それはバグを取り除いたわけではない。
すべての問題は社会設計にある。根本となる社会設計を改革していかない限り、同じような問題は何度でも何度でも何度でも起こるであろう。
それ即ち、日本国の衰退途下国化である。

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東京都   2021/08/07   センチュリー・大橋

河村たかし:かしたらかむわ/まずはアンタのリコールが必要だ

近鉄島風

人の口の中は雑菌だらけであり、他人に金メダルを噛まれるとなったら目も当てられぬ惨状である。
河村たかし:72歳。
ソフトボールで金メダルを獲得した後藤選手は河村たかし市長の元へ表敬訪問に訪れ、金メダルの獲得を報告した。
その刹那、河村たかし72歳、あろうことか金メダルに噛みついてしまう。
苦労の末に獲得した金メダルを72歳のお爺さんに齧られ、菌メダルに変えられてしまった。
SNSでは「かわむらたかし」の名前を入れ替えた皮肉が流行っていた。
「わたしかむから(私噛むから)」
「たからかむわし(宝噛むワシ)」
「かしたらかむわ(貸したら噛むわ)」

言うまでもなく金メダルの所有者は河村たかし市長ではない。後藤選手の持ち物である。
それを本人の了承を得ずして噛むとは、重いのはメダルの重量ではなく、河村たかし市長の罪深さではなかろうか。

大村県知事より河村市長のリコールが先だ

河村たかし72歳の職業は政治家ではない。プロレスラーである。
プロレスラーと言っても新日本プロレスや全日本プロレスで体術を披露するものではなく、口術で相手を疲労させるのが得意なプロレスラーだ。
河村たかし72歳の直近の活躍と言えば大村県知事に対するリコール問題であろう。
リコールを扇動したのは河村市長であるが、蓋を開けたら署名偽造というお粗末な有様であった。
実行部隊であった田中孝博事務局長は再逮捕され、名古屋市政は停滞した。
金メダルを煎餅のように齧るのは、それから僅か2ヶ月の話である。前回の名古屋市長選にて対立候補であった横井利明氏は「後藤選手には本当に申し訳ない」とブログで締めていた。
まずは河村市長がリコールを受けるべきであろう。

「誰がやっても同じ」ではない/選挙に行かなかった人も責任あり

前回の名古屋市長選では横井利明氏が自民党を離党の末、直前になって市長へと立候補することになった。
横井氏の立候補に関する詳しい経緯は日経ビジネス:敗軍の将兵を語るに詳しく書かれているが、河村市長で停滞している名古屋市政を何とか変えたい思いがあっての立候補となった。
自・公・立・国と4政党が組み、更には共産党員まで横井氏の支援に入るという自共共闘と言っても過言ではない事態に発展したが、河村市長の再選を許す結果となってしまった。
政治の世界にIFは野暮であるが、果たして横井利明氏が名古屋市長になった場合、金メダル噛みつき事件は起きたであろうか。

「誰が(トップを)やっても同じ」

果たして本当にそう言い切れるのか。
Twitterでは「誰だよ河村たかしに入れた奴…」という声も散見される。
だが、責任があるのは河村たかし72歳に入れた有権者だけではなかろう。選挙に行かなかった人も同罪である。
名古屋市には約230万人の人口がいる。その内、選挙権を持った人は約8割おり、実際に選挙で投票したのは80万人程度しかいない。
つまり、凡そ100万人が選挙に行かなかったのであり、河村市長を当選させたことの責任は河村市長に入れた約40万人と選挙に行かなかった100万人の責任と言って良い。
尤も、名古屋市は名古屋市民の街であり、名古屋市のことを決めるのは名古屋市民である。
名古屋市民自身によって河村たかし72歳を罷免出来ないのであれば、名古屋のブランド力は下がってしまうと思われるが、如何か?

呑川増強幹線整備事業説明会レポート

目指す方向性を箇条書きせよ:危機から抜け出す都市ビジョンのあり方

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愛知県   2021/08/05   センチュリー・大橋
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