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トリエンナーレ天皇論:「貴方の家族の写真が焼かれたら」はチョー的外れ

あいちトリエンナーレ昭和天皇論

あいちトリエンナーレを巡るネット論争はなかなか収束の気配が見えないが、昭和天皇の写真を巡る論争で今さら気になることが一つあった。
「お前たちの家族の写真が燃やされたりしたらどう思うんだ!」という手の論争だ。
確かに自分の家族の写真が燃やされてネットにアップされたり展示されたりするとなれば、それは誰しもが良い気持ちはしないだろう。そう、それは一見正論である。一見正論に見えるように見えるのだが、ふと引っかかるものがある。
「そもそも昭和天皇は私人なのか?」
ということだ。
言うまでもなく昭和天皇は公人であり、私人では決してない。それもただの公人ではない。先の大戦で講和を結ぼうと思えば結べた立場であり、昭和天皇には紛れもなく戦争責任があるのである。
大日本国帝国憲法下における昭和天皇は実権を持っていたわけで、言ってしまえば昭和天皇の決断は当時の日本人の命運を動かす力を持っていたのである。

昭和天皇は日中戦争や太平洋戦争の降伏を決断できる立場にあった。これはもう疑いようもないことで、これは1945年に昭和天皇に宛てられた近衛上奏文にも「もう大東亜戦争は負けるの間違いないっすから(私の身を守るためにも)どうか決断してちょうだい」という内容の文面が書かれている。
大曲覚氏(硫黄島の戦いの生存者)の「英雄なき島」を読めば、当時の日本軍の下級兵士も日本が敗戦するのはほぼわかっていたことが書かれている。
とどのつまり、3月10日(東京大空襲)から8月9日(長崎原爆投下)までの犠牲は、昭和天皇の決断次第では抑えられた犠牲である。
戦争を知らない世代に産まれた我々は「昭和天皇の写真が焼かれる」という光景だけを見てものを考えがちだが、そもそも昭和天皇は一国の軍隊を動かせる強大な力を持っていたという前提は持っておいた方が良い。この前提を持たなければ、そもそも物議を醸すことになったトリエンナーレ作品の作られた背景がわからないからだ。
さて、今回トリエンナーレで一時展示中止になった「表現の不自由展」は大人の事情により世に出なかった大浦信行の作品であるが、大浦信行作品に対するバッシングとは裏腹にふと考える。
「そもそも私の親族がそこまで他人に恨まれるような大きな権力なんざ手に出来るんかいな?」と。
個人的な身の上話をすると、私の家族構成としては母と祖父がかなりの荒くれ者である。祖父は酒乱であったし、母も非行歴があるが、それでも社会ではまぁ真面目に働いてはいる。確かに気性が荒いから喧嘩になった相手に飛び膝蹴りでも浴びせようものなら恨まれようが、それでもまぁ写真を焼かれるような事態までは発展しないだろう。まぁなんかの雑誌に載って売れ残った分が焼却炉に行くかもしれないが、せいぜい一般人のスケールとはそんなもんである。
これに対して昭和天皇は公人であるし、しかも大日本帝国憲法下では降伏を決断できる立場にある。
結局、8月15日まで決断が遅れて云10万の命が犠牲になったわけで、そこを踏まえて大浦信行は「昭和天皇は戦争責任を取れ!」と表現したのがあのコラージュだったのだろう。
少なくとも昭和天皇と一般人では持っていた権力のスケールが違うので「お前の家族の写真が焼かれたらどうだ!?」という論法は破綻しているように思うのだが、果たして?

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戦争   2019/10/11   センチュリー・大橋

改めて問おう-表現の自由とはなんだ?!:あいちトリエンナーレの憂鬱❷

「表現の自由」をネタに当選した山田太郎議員より、武井俊輔議員の方が表現の自由の本質を理解しているというのは、なんとも皮肉なものだ。
日本国憲法の成立史からみて表現の自由とは、反ファシズムのために存在しているのであり、いわゆるコミックマーケットの開催であるとかなんであるというのは、その副次的なものとも言える。
山田太郎議員の実績とはいわば「コミックマーケットを守ったぞー!」というものであって、憲法史からみた表現の自由というのは特段理解していないと言って良い。
同時に自民党以外からも、あいちトリエンナーレの出来事に関しては実質的に表現の規制を求める議員がいたことは見逃せない。

実際問題として、こちらの意見の方が賛同者は多いであろう。
確かに今回の表現の不自由展で展示されたものは、税金で開催されるイベントでの展示物としては些か不適切であったであろう。また、イベントの結果論を言えば、国民間の分断を一層加速させたイベントになったことは疑いようもない。国民がそれを批判する権利は大いにある。
一方、行政に立つ側が検閲をしてはいけない以上、愛知県側としては出展物を事前審査して禁止にしたりはできないわけだ。その意味で、大村知事の意見は正論だ。
しかし、あいちトリエンナーレはある部分において、日本の需要と実情をよく示した有意義なイベントであった。もちろん、それは憂鬱な事実を露わにしたのであるが。

あいちトリエンナーレは今の日本が戦前であることを露呈した

原口議員や源馬議員など、国民民主党の議員は概ね多くの国民の意見に沿ったものを言ったのだろう。というより、松下政経塾の基本的な意見を述べたのだとすら考えられる。松下政経塾出身政治家の意見はある意味で松下幸之助の思想を反映しているので、彼らを通して松下幸之助の人となりが見えてくるのだが、改憲を目指す松下幸之助の考えでは検閲すべき表現であるということだったのだろう。
この考えはもちろん清和会系の自民党議員も同じような考えで、長尾敬議員、山田宏議員、杉田水脈議員が今回のイベントにこぞって河村名古屋市長に同意していることから、自民党清和会はほぼ全議員が河村名古屋市長と考えを同一にしていると見て良い。

一方、津田大介氏と共にバッシングされる立場の大村知事は、もともと自民党にいた人だというのが興味深い。
大村知事は自民党の平成研究会に在籍し、一時期は中京維新の会の代表を務めていた。2015年の当選にしても、彼を推薦したのは自民党や維新の会なのだ(実際には他5党の推薦もあるが)。

自民党内でも武井議員のように危惧を覚えた議員は他にもいるのかもしれない。

自民党関連の人間でありながら、武井議員や大村市長は松下政経塾の出身ではなく、かつ清和会ではない。
一方で、原口議員や源馬議員は松下政経塾出身であり、杉田議員や山田宏議員、長尾議員は自民党では清和会。
となれば、今の日本で真に恐ろしいのは松下&清和会的価値観の国民全体への浸透であり、それは着々と進んでいることなのかもしれない。
第二次世界大戦前の流れをザっと見てみると、社会主義と排外ナショナリズムの争いがあったように見える。
そして21世紀初旬である今、世界的には社民主義と自国優先主義(排外ナショナリズム)の争いが起きており、これまた20世紀と同じように、極右勢力が優位になっている。イングランドでもフランスでも韓国でもナショナリズムの高まりを見せている。
ユーゴスラヴィア紛争でもその前段階として、メディアによるナショナリズムの高まりがあったことが、東大最前線のレポートでも示唆されていた。
あいちトリエンナーレ2019では、多くの国民が「実は表現の自由なんて望んでいない」という様相を露わにするとともに、今の嫌韓に基いたナショナリズム世論の形成が出来上がっていることも露呈している。
これは即ち今の日本はもう戦後ではなく、戦前であることを示している。
この空気が可視化されたという点において、あいちトリエンナーレ2019は、大変有意義なイベントになったと言えるだろう。
それは些か憂鬱な事実であり、最悪の事態に対する備えは今から準備した方が良いということでもある。

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  2019/08/06   センチュリー・大橋

改めて問おう-表現の自由とはなんだ?!:あいちトリエンナーレの憂鬱❶

あいちトリエンナーレの「表現の不自由展」は大炎上し、津田大介氏には脅迫が行われる事態にも発展している。
今、世界を二分しているのは左派的社民主義と極右的封建主義であるように思われるのだが、改めて今回の表現の不自由展は、国民を分断するのに充分過ぎる展示内容であった。
そして山田太郎議員が「表現の自由を守る」という約束で当選しているのも相まってか、ここでも「表現の自由」が大きな問題になっている。当然ながら山田太郎議員は今回の件で意見を求められているが・・・。

『発した表現については表現者は責任を負うべきです。私個人は今回の表現は好みません。関係者に危害が及ばないことを望みます』

非常に歯切れの良くないツイートになっている(魚拓)。

一方で、武井俊輔議員は河村名古屋市長の発言等に対し、警笛を発している。
「この人がなぜ自民党にいるのだろう」とよく評される武井議員であるが(それは基本的にアベノミクスに賛同の立場だから必然的に自民なのだが)、概ね彼は表現の自由というものを理解していると言えるだろう。
なぜ同じ自民党議員でありながら、表現の自由を巡って山田太郎議員と武井俊輔議員にここまでツイートの質で差がつくのかと言うと、これは山田太郎議員の守りたいものが「表現の自由」ではなく「コミックマーケット」だからだと言えるだろう。いや、これは前々からわかっていたことだが、山田太郎議員の守りたいものはあくまでも「コミックマーケットでしかない」ので、根本である「表現の自由とは何か/どういう経緯で生まれたのか」という背景を理解していないのである。
同時に自身の支持者がどんな人達かは良く知っているので、回答に『私個人は今回の表現は好みません』と最後の方に持ってこられるのである(文章は本当に伝えたいことは最後の方に来るのはお決まりのプロセスである)。

何の経緯で作られた条文なのか

まず日本国憲法は何のために生まれたか。ここについての歴史的背景を振り返ることが必要不可欠だ。
日本国憲法はいわば、日中戦争と太平洋戦争の反省からスタートして生まれているものだ。
つまり、日本国憲法の持つ根底思想は「不戦の誓い」なのである。これは9条がどうという問題ではなく、日本国憲法全体で見た時に持つ思想が「不戦の誓い」なのだ。
「じゃあ表現の自由と不戦がどう関係するんだよ?」
と思われるかもしれない。
これは要は、国家を自由に批判する権利を有し、再び日本がファシズムへ突っ走らないようにするための仕組みとして表現の自由が存在している。
同時に、単に「表現の自由を保障します」だけでは効果が薄いので、21条に検閲の禁止を絡めているわけだ。
大村秀章愛知県知事
写真元:朝日新聞社

大村秀章知事は開催中止を求めた河村名古屋市長を「憲法違反ではないか」として批判し、吉村洋文大阪府知事が「なんで河村さんが悪者にされてるんだよ!」と激昂していたが、憲法解釈について言えば、大村県知事が正解なのだ。
よって表現の自由とは本来、ファシズム化を防止するためにある自由であって、コミケを守る自由というわけではないのだが、例え税金で行われるイベントであっても行政が検閲することはできないということである。

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憲法   2019/08/05   センチュリー・大橋
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