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民主主義

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「そりゃ支持されるわ」:400年も昔に民主政治を目指した男たち❷

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後北条氏の善政は主に税制改革が筆頭に来るが、実は後北条氏には見逃せない、もう一つの改革がある。
それが領民主権の考え方だ。
いや、実際の統治としては武士が直接統治をしていたことは確かである。あくまで時代としては封建制なので、建前上主権を持っているのは君主であることは疑いようもない。
ただし、後北条氏に至っては、早雲の時代から既に、民主主義的な気質が芽生えていたことが大きく進んでいた。その民主主義的な気質は北条五代の中で、代を経るごとに強くなっているのだ。

小さく始まった国民主権の考え

小さな頃に読んだ『学習まんが物語:北条早雲/毛利元就』のあとがきで読んだ内容だが、早雲はこれから攻めようという土地に侵入して、現地住民に「どんな領主が来て欲しい?」みたいなことをヒアリングしていたという。今風に言えばマーケティングをしていた早雲であるが、これは同時に早雲の中で『領民主権/民主主義』的な概念を持っていたということでもある。伊豆攻略時も病気に掛かっていた住民や老人は置き去りにされたが、そんな置き去りにされた者たちに薬を持って看護させるなど、早雲の時点で既に社会保障の概念が芽生え始めていたことも注目すべきポイントだ。

後北条氏の政治理念は虎の印章に掛かれた「祿壽應穩」に込められている。
これは「禄(財産)と寿(生命)は応(まさ)に穏やかなるべし、領民全ての禄を寿を北条氏が守っていく」という理念で、更に氏綱遺訓には今日の日本国憲法25条に通ずるような、基本的人権に近い思想が込められている。

侍中より地下人、百姓等に至迄、何も不便に可被存候。惣別、人に捨りたる者はこれなく候。器量、骨格、弁舌、才覚人にすくれて、然も又、道に達し、あつはれ能侍と見る処、思ひの外、武勇無調法之者あり。又、何事も不案内にて、人のゆるしたるうつけ者に、於武道者剛強の働する者、必ある事也。たとひ片輪なる者なり共、用ひ様にて重宝になる事多けれは、其外は、すたりたる者は一人もあるましき也。その者の役に立処を召遣、役にたゝさるうつけ者よと、見かきりはて候事は、大将の心には浅ましくせはき心なり。

これは人の使い方に関する言葉で、要約すると「人材を活かせないのは大将の責任だよ。一見役に立たなそうな人でも見限るのは浅ましいことだね。」というものなのだが、前半部分に書いてあることとして「侍から身分の低い人、農民の誰もが生活に不便を感じるようにしてはいけないよ。人に捨てる者はいないし、障碍者でも使い方によっては重宝するから大切にしないと駄目だよ」ということが説かれている。
これは日本国憲法の基本的人権にも通ずる考え方と言えるだろう。では現行憲法25条の条文を見てみよう。

第二十五条

すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する
国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
日本国憲法では『健康で文化的な最低限度』の生活をする権利を保証している。不便で最低限度の生活とは異なるものであるということを認識しておいた方が良い。氏綱の遺訓でも「誰もが不便な生活をしないようにしなければいけない」と言っているのであるから、この封建制時代に民主的で近代的な憲法に近しい考え方を後北条氏が持っていたことは興味深いと言えるだろう。

時代を先取りしすぎた社会民主主義

小田原評定は大切なことを決められない揶揄として使われることわざのようだが、元を見れば今日の県議会議員のような役職を立て、議論によって政策を決めるという議会政治の先駆けと呼べるようなものである。つまり滅亡に当たってのプロセスが民主的に決められたというのが小田原評定の本質だということだ。
こうして後北条氏を見ていくと、彼らの目指した究極のゴール地点は社会民主主義的なものになってくる。
社会民主主義というのは政策の決定を民主的なプロセスを決め、大きな政府を維持して格差を無くしていくための政治思想である。
2019年現在はアメリカのバーニー・サンダースが一定の勢力を持っているが、それは400年以上も前に小田原で、後北条氏が先駆け的なものを作っていた。
それはまるで時代を先取りしすぎた社民主義とも言える。
後からやってきた家康にとって、これはさぞやり辛いことだったであろう。彼にとって北条五代の支持率が高かったからだ。
果たして後北条氏が今の日本の姿を見たら、どう思うのか。
この激動の時代、時間のある人には小田原に足を運んで欲しいものである。
400年前の小田原で民衆のための政治を行おうとした武将がいることに思いを馳せていただき、日本人自身の手で主権が放棄され、暗黒の時代に戻らないことを切に祈るばかりである。

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  2019/08/13   センチュリー・大橋

「そりゃ支持されるわ」:400年も昔に民主政治を目指した男たち❶

先日久しぶりに小田原城まで足を運び、後北条氏の面影を偲んでいた。
北条早雲公。戦国時代のパイオニアとして知られる彼は、一方で極めて善政をしいた君主として、当時は領民から強く支持されていた。小田原から帰った後も彼について調べてみると、それは近代日本にも勝るとも劣らない、民主的な国家を作ろうとしているように感じられるものであった。
今回は今の日本人に必要な400年前の北条五代の精神にスポットを当ててみたい。
 

後北条氏の敷いた政策

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北条早雲をはじめとする後北条氏は、きわめて領民の支持が厚い君主であった。
その支持される秘訣は租税が安かったことと、社会保障の充実をしていったことである。租税も早雲の代で安くなったことが領民から喜ばれた。
飢饉や不作の年の税の減免制度まで整っただけでなく、氏康の代には国の蓄えを支給して民を救うという、社会保障施策までやっていたということである。
立法に当たっては徳川吉宗に先駆けて目安箱を設けるなど、領民の声を聴くということに注力を注いでいた。

税制改革によって領民の可処分所得を増やしつつ再分配をする

徳川家康が後に関東を支配することになった時、後北条氏の治めていた地域はかつての君主を慕う領民が多く、やり辛かったのだそうだ。
家康としても自国内で暴動が起きても困るので、領民統治に当たっては部分的に踏襲していかなければならないことになる。
その根本たる制度はやはり税制であろう。
例えばイメージしてみて欲しい。
「財政再建のために消費税15%にします(と言いつつ法人税は減税)」という政治家と「無いところからはとりません。代わりにお金持ちから税金を取ってない人に還元します」という政治家、どちらに投票したいだろうか。今の日本は国民の手で政治家を選べるのだから、後者に投票したくなるのではないか?
まして当時の農民は君主(政治家)を選べなかったのである。だから自分達のためにならない領主から生活を守るために一揆(暴動)を起こして何とか自分達の意見を聞いて欲しいと願ったのだ。

北条早雲のこれまでの領主との違いは、まず税金を下げることから始まった。
それまでの農民は君主に対してなんら期待などしてなかったのである。
「どうせ誰が領主になったって同じだよ・・・」そんな諦めの中で「大変だ、新しい領主が税金下げるってよ!」と来たので、当時も大変話題になった。
それまでの農民の税率は50~60%が概ね相場だったのだ。
これに対し、早雲は40%に下がっている(四公六民)。更に税制の中で少しずつ中間搾取を防ぐ仕組みを作り始めており、多くとられすぎている場合には直接早雲に直訴できる要素を作っていたわけだ。
町人に自由な商業を認めて銭による税収も確保したが、こうした善政によって後北条氏五代の間、領国内での一揆(暴動)が起きなかったというのだから、極めて優れた政治家であったと言えよう。

後からやってきた家康にとって、後北条氏の善政は完全に自分の常識外であったであろう。
そもそも自分が思っている制度より先取りした税制をやっていたわけである。戦国時代で毎日闘争に明け暮れていた時代にも関わらず、封建制のこの時代に社会保障の概念が生まれ始めていたことは特筆すべき事態と言えよう。
まだ経済学というものも殆どないこの時代に、税と再分配の考え方が小さく起こり始めていたことが、後北条氏が先見性に優れた一族であるとも言える。

もし北条五代が平成時代に内閣を運営していたら、日本はデフレから脱却できていたであろうことが容易に想像できる。

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  2019/08/13   センチュリー・大橋
タグ:税制 , 民主主義
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