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改めて問おう-表現の自由とはなんだ?!:あいちトリエンナーレの憂鬱❷

「表現の自由」をネタに当選した山田太郎議員より、武井俊輔議員の方が表現の自由の本質を理解しているというのは、なんとも皮肉なものだ。
日本国憲法の成立史からみて表現の自由とは、反ファシズムのために存在しているのであり、いわゆるコミックマーケットの開催であるとかなんであるというのは、その副次的なものとも言える。
山田太郎議員の実績とはいわば「コミックマーケットを守ったぞー!」というものであって、憲法史からみた表現の自由というのは特段理解していないと言って良い。
同時に自民党以外からも、あいちトリエンナーレの出来事に関しては実質的に表現の規制を求める議員がいたことは見逃せない。

実際問題として、こちらの意見の方が賛同者は多いであろう。
確かに今回の表現の不自由展で展示されたものは、税金で開催されるイベントでの展示物としては些か不適切であったであろう。また、イベントの結果論を言えば、国民間の分断を一層加速させたイベントになったことは疑いようもない。国民がそれを批判する権利は大いにある。
一方、行政に立つ側が検閲をしてはいけない以上、愛知県側としては出展物を事前審査して禁止にしたりはできないわけだ。その意味で、大村知事の意見は正論だ。
しかし、あいちトリエンナーレはある部分において、日本の需要と実情をよく示した有意義なイベントであった。もちろん、それは憂鬱な事実を露わにしたのであるが。

あいちトリエンナーレは今の日本が戦前であることを露呈した

原口議員や源馬議員など、国民民主党の議員は概ね多くの国民の意見に沿ったものを言ったのだろう。というより、松下政経塾の基本的な意見を述べたのだとすら考えられる。松下政経塾出身政治家の意見はある意味で松下幸之助の思想を反映しているので、彼らを通して松下幸之助の人となりが見えてくるのだが、改憲を目指す松下幸之助の考えでは検閲すべき表現であるということだったのだろう。
この考えはもちろん清和会系の自民党議員も同じような考えで、長尾敬議員、山田宏議員、杉田水脈議員が今回のイベントにこぞって河村名古屋市長に同意していることから、自民党清和会はほぼ全議員が河村名古屋市長と考えを同一にしていると見て良い。

一方、津田大介氏と共にバッシングされる立場の大村知事は、もともと自民党にいた人だというのが興味深い。
大村知事は自民党の平成研究会に在籍し、一時期は中京維新の会の代表を務めていた。2015年の当選にしても、彼を推薦したのは自民党や維新の会なのだ(実際には他5党の推薦もあるが)。

自民党内でも武井議員のように危惧を覚えた議員は他にもいるのかもしれない。

自民党関連の人間でありながら、武井議員や大村市長は松下政経塾の出身ではなく、かつ清和会ではない。
一方で、原口議員や源馬議員は松下政経塾出身であり、杉田議員や山田宏議員、長尾議員は自民党では清和会。
となれば、今の日本で真に恐ろしいのは松下&清和会的価値観の国民全体への浸透であり、それは着々と進んでいることなのかもしれない。
第二次世界大戦前の流れをザっと見てみると、社会主義と排外ナショナリズムの争いがあったように見える。
そして21世紀初旬である今、世界的には社民主義と自国優先主義(排外ナショナリズム)の争いが起きており、これまた20世紀と同じように、極右勢力が優位になっている。イングランドでもフランスでも韓国でもナショナリズムの高まりを見せている。
ユーゴスラヴィア紛争でもその前段階として、メディアによるナショナリズムの高まりがあったことが、東大最前線のレポートでも示唆されていた。
あいちトリエンナーレ2019では、多くの国民が「実は表現の自由なんて望んでいない」という様相を露わにするとともに、今の嫌韓に基いたナショナリズム世論の形成が出来上がっていることも露呈している。
これは即ち今の日本はもう戦後ではなく、戦前であることを示している。
この空気が可視化されたという点において、あいちトリエンナーレ2019は、大変有意義なイベントになったと言えるだろう。
それは些か憂鬱な事実であり、最悪の事態に対する備えは今から準備した方が良いということでもある。

  2019/08/06   センチュリー・大橋
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