テレビアニメ「ひぐらしのなく頃に卒」が7月から放送されている。
旧版ひぐらしは祭囃し編にて惨劇から抜け出し、古手梨花の本当の人生が始まると言わんばかりの終わり方だった。
ところが「ひぐらしのなく頃に業」では、古手梨花が高校進学後、北条沙都子との間に生まれた確執により、再び昭和58年をループさせられるという事態に発展した。
なぜ古手梨花と北条沙都子に確執が生まれたのかを簡潔に説明すると、一人でお嬢様学校に進学するのを恐れた古手梨花が、北条沙都子を巻き込んだためである。
一方、北条沙都子はお嬢様学校に行くことを拒んでいたが、それでも古手梨花に説得され、しぶしぶ同じ学校への進学を了承したが、進学先のお嬢様学校で古手梨花には新たな友達(というよりは取り巻き)が出来たことにより、北条沙都子は孤立。
梨花から「沙都子を絶対一人にしない!」という約束を受けていた沙都子は、孤立させられたことを強く恨み、悪い神様から得た力を使って復讐を決意する。それが令和版ひぐらしの惨劇の幕開けとなるのである。
梨花も沙都子も互いの本性を知らなかった
それは両者とも互いの本性を知らなかったということだ。
特にショックが大きかったのは沙都子であろう。古手梨花という人物は割と自分のことしか興味がない人間である。そのため、取り巻きが出来、かつサロンで美味しいケーキをつまみながら新しい友達と談笑することに楽しみを覚え、旧友はほっぽってしまった。沙都子は梨花のこうした本性に気付くことが出来ず、孤立を深めてしまうことになる。
もちろん梨花も梨花で沙都子に対する油断があったため、沙都子が報復に及んでくるとは思いもしなかったのだ。
ひぐらしのなく頃に卒のジャケット絵は、梨花と沙都子の関係が修復不可能なほど悪化したことを示している。
全寮制のお嬢様学校に行く選択をするにあたり、梨花は沙都子に「貴方を絶対一人にはしない!」と言って沙都子が激昂する場面がある。ループの中で沙都子が梨花の本性を知ってしまったために激昂したのだが、恐らく最初の人生でも梨花は沙都子を力づくで説得したのであろう。
梨花も沙都子もおお互いの本性を知らなかったことで悲劇が起きたが、実際の人間関係でも「9年一緒にいても実は互いを良く知ってなかった」というのは、往々にしてあることではなかろうか。
環境が変われば立場も人間環境も変わると知るべし
ではなぜ本編での梨花と沙都子が「親友」でいられたのかというと、共に親を亡くし、閉鎖された村社会の中でずっと同じ教室で過ごし、同じ家で暮らしてきたからこそ「親友」としての「立場」が保たれたのではないかと思われる。
即ち同じ学校に通うようになっても、2人の「性質」が異なる以上、当然、人間関係も変化していく。
梨花はお嬢様学校のエリート達と波長が合ったが沙都子には合わなかったのだ。この違いが両者の立場の違いへと発展し、人間関係に亀裂が走ることとなった。
北条沙都子は「私は勉強が嫌いだ」と言っていた。沙都子にとって、聖ルチーア学園にいるということはそれ自体が地獄なのであり、サロンでケーキを頬張る梨花と異なり、勉強を頑張ることによる精神的報酬が無い。
確かに雛見沢にいる間は古手梨花と北条沙都子は友達同士であった。だが、環境が変われば立場が変わる。新しい環境に入る一瞬は同じ立場であったとしても、時間と共に立場には差がついてしまうのだ。
会社とよく似た聖ルチーア学園:あれは未来の会社員に待つ光景だ
学校と会社の違いを説明しろと言われると些か難しいものだが(日本の会社は学校の延長にあるため)、聖ルチーア学園は特に企業の姿のそれと良く似ている。古手梨花が参加していたサロンなどは成績上位者に許されたお茶会であると思われるが、会社組織の中でも役職が上の人間ほど会社のお金で豪華なものを食べに行けたりする。接待という奴である。そうでなくとも人脈形成の機会にも恵まれ、学びや意見交換の場も役職が上がるほど貰えるようになる。
方やカーストの下に置かれると大変である。
北条沙都子は補習室と独房を経験したが、補習室などは正に企業の追い出し部屋そのものだ。加えてルチーアの場合、生徒を退学させることはしない。あくまでも「自主退職届を出せ」と言うのだ。この点も会社のシステムと酷似しており、ひぐらしのなく頃に業を通して「友達同士で同じ進路を選ぼうとしてはいけない」ということを暗に教えてくれている。
勿論お笑いやバンド活動なんかは友達同士で始めてプロになったグループもいるし、友人同士で同じ会社に就職するというケースは、あるにはある。
しかし、アーティストがギャラで揉めることがあるように、同じ会社に友達同士で就職すると、立場(役職)の違いが出来た時に亀裂が走ることも有り得る。
仮に同じ学校・同じ職場に勤めることとなったとしても「結果的に同じ会社(学校)」になったのか「プロセス的に同じ会社(学校)」になったのかで気の持ちようも変わって来るだろう。
古手梨花と北条沙都子は「プロセス的に同じ学校になった」のであり、梨花の思い描いた高校生活と沙都子の懸念した高校生活に大きな食い違いがあったであろうことが否めない。
「結果的に同じ学校になった」のなら大きなトラブルは起きなかったであろう。しかし「プロセス的に同じ進路を取るような選択をした」からこそ大きなトラブルになったのだ。
どうしても一緒の道を歩きたい友人がいるなら、それはその友人に「自分と同じ道を歩く適正があるか」の見極めが必要になるだろう。古手梨花はその見極めを怠った。さすがに北条沙都子クラスの過ちを起こす人はいないであろうが、人を自分と同じ進路に誘うには責任が伴うということは覚えておいた方が良い。
「金の切れ目は縁の切れ目」と言うが、もしかしたら「立場の分かれ目は友情のヒビ割れ」になるのかもしれない。
進路というものは「友達と一緒」の道を選択してはならない。あくまでも「行った先で何を得たいか」をベースに進路を考えるべきではないだろうか。