言わないとわからない
写真:佐久島のフリー写真素材より
仕事を進める上で判断に迷うことはよくある者だが、日々の業務において難しいことの1つが「自分の裁量を正確に把握すること」である。
言うなれば「空気を読めるかどうか」が求められ、コレができるか出来ないかが出世にあたっても大事なポイントになるのだが、残念ながら世の中には「言わないとわからない」人達も一定数いる。
極論的な例えを持ち出すとASDなど「言われないとわからない」の典型だ。
このASDの割合にしても概ね学年の2~3クラスに1人はいるような割合で、ともすれば「貴方の部下にもASDが居るかも知れませんぜ」という頻度でいたりもする。
こうした人も上手く従えないといけないのが管理職の大変さではあるのだが、同時に労働者の大変さでもある。
取り分け日本はハイコンテクストの文化だ。
ハイコンテクストであるが故に「それくらい言わんでもわかるやろ」という先回り能力が求められるのだ。
「自分で考えろ」⇒無能な働き者に変貌
指示待ち人間の部下に『自分で考えろ』と叱責したら、報告せず勝手に行動する無能な働き者に変貌して手が付けられないのですが、もう鉄拳制裁しかありませんか?
なかなか過激な物言いだが「自分で考えろ」の意味が正しく伝わらなかった典型である。
もちろん鉄拳制裁などしようものなら暴行罪で科料となるか告訴されるかと言ったところになるが、迂闊に「自分で考えろ」と言ったばかりに「自分で考えて行動してしまった」ということである。
「自分で考えろ」と言いながら「自分で考えて行動した結果」が「勝手なことをするな」であるから、自分で考えることと行動することには境界線があることになる。
要は「どんな方法でやりたいかを自分で考えて、そのやり方で進めてよいかを相談して欲しい」と言えば良いことなのだが、訊き方として「どうすれば良いですか?」の疑問を「そんなの自分で考えろ」と言ったばかりに「自分で考えて勝手に行動される」ということが起こる。
ここで大事なことは2点ある。
・質問の仕方を指導する
・自分で方法を考えて相談させる
この2つが必要なのである。
例えば炒飯の作り方を知りたいとして「炒飯はどう作れば良いですか?」と訊かれ「そんなの自分で考えろ」と言ったとしよう。
自分で考えた結果、醤油を大量に入れて炒飯の色を再現しようとし、結果、すこぶるしょっぱい炒飯のような見た目のものが出来上がる。
そのようなご飯炒めを作らせないためには「炒飯の作り方を調べて自分で考えて貰って正誤について相談させる」ということが必要なのだ。
「自分で考えろ」だけでは部下(後輩)には伝わらない
ここまで読まれると「そこまで言わないと伝わらないのか」と思われるかもしれない。
しかし、世の中には「それが伝わらない人間がいる」のである。
極論を言えばASD当事者には高確率で伝わらない。
このASDにしても、小中学校の2クラスに1人の確率で存在するのである。
これを多いと見るか少ないと見るかは個々人で差があるであろうが、それ以外にも外国人の部下を持ったりすれば、やはり言葉に不足があると伝わらないのだ。