自らの幸福よりも他者の不幸:他罰願望者が望む新•社会主義⓶
反共と言うより反資が正しい
写真:津山市のフリー写真素材より
自民党政権は左からではなく、右から倒されるかもしれない。
2025年の参院選は、それを想定させるのに十分な結果であった。
小池都知事でさえ「競い合って排他主義は非常に危険」との認識を示すほど異常な事態となり、参政党のみならず、保守党も勢力を伸ばすこととなった。
躍進した政党は政治的には右派であるが、経済的にはほぼ左派である。
X(旧Twitter)を見れば「反共を唱えているが実態は反資本主義」と言う者は少なくない。
取り分け「弱者男性」と呼ばれる者は市場社会の敗れもの達である。
自らが資本主義の中で「弱者のポジション」に置かれたのであるから、資本主義には納得しようはずもない。
だからとて、自らが「弱者として手を差し伸べられたくない」と言うのも、多くの「弱者男性」が抱える屈折した感情ではなかったか。
そんな弱者男性に対する救いが「国債を財源とした積極財政論」であり、人種主義、純血主義のそれと合わさった国家社会主義的なものへと進化していく。
歴史を紐解けば似たような時代はある。
1930年代初頭のドイツがその典型である。
#税は財源ではない
いつ頃からか独り歩きするがように叫ばれる「#税は財源ではない」と言う言葉。
これに反発すれば漏れなく「ザイム真理教徒」としてのレッテルを貼られることになる。
インターネットには反共(反共産主義)を掲げる者は多く存在が、それらの反共アカウントが「#税は財源ではない」と言い、国債を財源とした所謂バラマキ政策を求めているのは腑に落ちないが、一つ言えば当論は「弱者男性が弱者男性たらしめているのは俺達が悪いわけじゃない!」と。
「国が国債をもっと発行して通貨を供給すれば俺達はもっと輝けるんだ!」と言う、ある種の魔法の論法である。
「日本人ファースト」を叫びながら「#税は財源ではない」と言う者の言いたいことは「減税して国債をガンガン発行して日本人に金をばら撒け」と言うことである。
彼らの論法の大きな問題点は「日銀の独立性を否定している」と言うこと。
そして「外国との貿易は無視している」と言うことである。
安倍政権時代に行われた異次元緩和によって日銀による国債の大量保有が行われ、マネーの供給が増大した。
これにより通貨価値は下がり、後遺症として現在は物価高に喘いている。
もちろん経済が鎖国や植民地を持ったブロック経済前提なら「#税は財源ではない」と言う論法も働きはしよう。
しかし日本は燃料、食料、原料の「3料」は輸入に頼っており、外国との関係性は抜きにできない。
なんであれば、加工貿易で稼いでいた昭和時代と異なり、令和時代に至ってはスマートフォンやパソコンなどの完成品さえ中国からの輸入であるが、財務省解体論者の多くは、そうした貿易の取引については無視していると言って良い。
財政ポピュリズムの行き着く先は新•社会主義
ネットでは「自民党は帰化議員が多い」であるとか「財務省の人間は日本人ではない」などと言った、根拠無根の発言がSNSを賑わせている。
少なくとも国債の信用が落ち、金利が上がれば財政が困難になることに関して財務省の言うことに間違いはないのであるが、財政ポピュリスト達は「政府債務は返す必要がない」などの論理で真っ向から否定する。
反共を唱える人間が同じ口でアベノミクスを賛美する光景は以前もあったが、昨今の財政ポピュリスト達は「反共を唱えながら中央銀行の独立性を否定する」のだから、目も当てられない。
むしろ反共を唱えている人間の支持する経済政策の方が共産主義に近く、彼らが否定する日本共産党の方が共産主義から遠ざかっていると言うのが現状である。
昨今の財政ポピュリズムは国粋主義と社会主義の合わせ技で、それはさながら「新•社会主義」と言った方が正しいのではなかろうか。
